その他
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1日は、早朝より坐禅の会がありました。
今回、初参加された方は「WEBデザイナー(CGクリエイター)」を生業とされておられる若い男性の方でした。
当ブログをご覧になりご来山くださったとのことで、‟やっててよかったミニコラム”といったところです^^
偶然にも、坐禅後の法話ではそんなコンピュータの世界で活躍する主人公が登場する「マトリックス」の話をいたしました
先日、「マトリックス」の新作映画を観てきました。(公開最終日に、すべり込みセーフで入場できました)
正確な映画のタイトルを「マトリックス・レザレクションズ」と言います。シリーズで言うと、4番目の作品です。
第1作が公開されたのは、1999年で僕はまだ高校生でした。ちょうど多感な時期ということもあり、社会や学校に対する疑問とこの映画の導入部分で主人公が抱く疑問とが重なり・・・まんまとハマってしまいました^^;
それが高じて、その後大学生になって卒論を書く際「マトリックスの世界観」をテーマの一つに取り上げたほどであります。。
よく、‟イナバウアー”のようなのけぞるポーズが流行ったりもしましたが…ここで、マトリックス・シリーズをご覧になったことが無い方のために少し物語の概要をご説明したいと思います。
(もちろん、新作のネタバレにならないように)
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・『マトリックス』シリーズでは、高度に進化したマシンが人類を支配するようになった近未来が描かれます。いわゆるロボットの反乱です。
最終戦争で敗れた人類は、特殊な液体の入った「培養カプセル」の中で管に繋がれたまま一生涯を終えることになります。それは、人間の体から発生する電気をコンピュータに供給するためです。
人間の体はカプセルの中から動くことはできませんが、意識は首筋に繋がれたプラグを通じて(人類が最も繁栄していた)20世紀末の世界を再現した仮想空間に接続されています。
この仮想空間の名前を「マトリックス」と呼び、カプセルの中の人間たちは、マトリックスの世界を本物だと信じて生活しており、ほとんどの人間は誰も真実を知らぬまま生涯を終えます。
・ただし、仮想現実のマトリックスから逃れた一部の人類は“ザイオン”と呼ばれる地下都市に潜伏しています。ここは、現実世界に唯一残されている人類の故郷というわけです。
この人類最後の救世主が、キアヌ・リーヴス演じるネオという主人公です。もともと、ネオも仮想空間の住人でしたが、、「真実を知りたい」という気持ちに駆られ、マトリックスの世界つまり培養カプセルから脱出し、マシンとの戦いに挑んでいきます。
・この映画は、『聞きなれない横文字や専門用語ばかりでよく分からない。』という声を耳にします。
「救世主」とか「機械との戦い」「夢と現実との違い」といった中高生にはたまらない単語がいくつも出てくるのですが、「プログラム」や「ソース」といったパソコンを扱う際に使う言葉もたくさん出てきます。
・新作の「レザレクションズ」という副題は、「復活」という言葉の複数形です。全三部作で機械との戦いに終止符が打たれたように見えたラストから果たしてどのような展開になったのか・・・と、ここから先は皆さん自身で映画をご覧いただければと思います。
革新的なアクションシーンをふんだんに取り入れた『マトリックス』シリーズは、多くの要素や物語からの引用で構成されている作品といわれています。ブルース・リーに代表されるカンフー映画、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、日本のアニメ、古今東西のあらゆる宗教、神話、哲学、思想と。
映画を観た観客は、それぞれの思想に近いものを感じるよう導かれる仕掛けになっているというわけです。
・僕の場合はやはり「禅」の思想を感じました。その理由は、第一作の中盤で主人公が覚醒するきっかけとなった「スプーンはない」という教えです。
これは仏教徒のような衣装を身にまとった少年が、仮想世界の中でスプーンを自由自在に空中に浮かせながらネオに語りかけるシーンで、「(目の前にスプーンがあるように見えるけど)本当は何もない。すべて自分の問題なんだ。」という真実を見るための助言をしてくれます。
・禅の言葉にも「本来(ほんらい)無一物(むいちもつ)」=(物事は全て本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つないということ)や、中国が唐と呼ばれた時代の禅僧「薬山惟儼(やくさんいげん)大和尚」が問答で答えた「不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す、非思量(ひしりょう)」という言葉。
これも、非常に解釈が難しいのですが…坐禅中の心の在り方を説いており、「思量しないところを思量する/思わないところを思え」という、いかにも難解な禅的表現であります。
しかしながら、実は現在に至るまで僕はずっとこの言葉に救われておりまして、あらゆる活動やイベントの原動力にもなってます。
・なぜならこの言葉を初めて教えてくださった大学院生の方が、勉強会の際こんなことをおっしゃったのです。
「例えば、ここに赤いペンがあるだろ。私たちは、これを赤いペンと認識しているけれど、ひょっとしたら別の人が見れば、同じ色に見えていないかもしれない。赤いペンではないかもしれない。」というのです。
意訳すれば、
★(当たり前にみえる)目の前の事象に一度疑問を投げかけることで、そのものに無限の可能性や新たな価値を生み出すことができる。
※そのために、まず目の前の現実や時空を正しく認識しなければならない。心に浮かんだ思いに気づき、受け流すという坐禅の時間を大切に実践行を続けなさい。
という理解をしております。
・上記の内容は、一見難しくて日常生活に関係のない話に聞こえるかもしれませんが、社会生活で何か壁にぶちあってしまったときは、哲学に触れてみたり、それぞれの心の内面と向き合う時間も有効だと思います。
・今日は、ちょっと仏教大学の講義のようになってしまいましたが、何か小さな疑問がきっかけで、心に波紋が広がっていったり「現実って何だろう?」と青臭い疑問を思い出させてくれるのが、マトリックスの魅力なのです
「スプーンはない」=「空(くう)」という教えを理解する際、つい「空虚」というマイナス面を創造しがちですが、例えば…画用紙に絵を描いていく内にだんだんと書く場所が無くなってきたり、本当はこう描きたいけど引き返せないところまで進んでしまった・・・という経験が誰しもあろうかと思います。
そんな時、画用紙を一枚めくり「新しいページに自由に絵を描く」つまり「人生はいつでもやり直すことができる」ということ。
これが、「執着をしない」という禅の精神につながっている
と、当時24歳の若造が書いた卒論では結んでおります。
※こんな私の卒論に興味のある方は、お寺の本棚のどこかにありますのでご自由にご笑覧ください
あれから、十数年が経ち・・・
雨の日やくもりの日もありますが、心の空を拡げる自由な発想だけは失わずに歩んでいきたいと思います
【次回の「月例坐禅会」は、2月15日(火)あさ5時半~/予約不要・参加無料です。】
※坐禅会場は「暖房完備」しておりますが、暖かい服装でご来山ください。