境内/近隣案内
境内/近隣案内
当寺の本堂は、約105坪。縦7間半、横9間半、木造瓦葺。寛延2年10月3日、第10世洞岳継宗和尚のとき、山梨、柴田両氏を始め、檀信徒の方々のご協力を得て再築されました。
時は移り令和元年、有縁の皆様ご助力のもと、およそ200年ぶりに新しい本堂の改修工事が完了しました。(免震・耐震施工)
「最澄と天台の国宝展」等にも出品されたことがある、静岡県の有形文化財です。
京都仏子2派のうち、院派仏子の流れを汲み、さらに院範または院雲に近い位置にいた仏師が制作したものだと推定されます。
木像は面部や頭髪、両手先と両足先の爪など細かい部分まで彫り込まれており、非常に丁寧に仕上げられています。
面相部は頬の張った丸顔で、眉・眼を長く表しています。鼻は丸みを帯び、唇は薄く抑揚がありません。体部は肩幅があり厚みを持つと同時に、脚部は左右に幅を持たせている為、安定感のある作品となっています。
一乗寺開山哉翁宗咄大和尚を祀っています。以前の開山堂が老朽化したことや、檀信徒様の増加に従い、昭和23年に位牌堂とともに再築落慶しました、正面中央に聖観音像を挟んで右に高祖道元禅師、左に哉翁宗咄の両尊像を拝しています。
心境池のとなりにある一如庵は、食事会場からヨガ教室まで多目的に使用できる檀信徒会館です。
昭和55年(1980)4月10日、御開山哉翁宗咄大和尚、御開基朝比奈信置公の400年遠忌にあたり、浄業の一つとして建てられたものです。玄関に掲げられた「一如庵」という扁額は、廉芳禅師の揮毫で「心境一如」から名付けられたものです。
昭和15年11月、国で皇紀2600年の式典を行った際、檀信徒と協議して庭池築造が決定、設置されました。数々の木々に囲まれた池では鯉が泳ぎ回り、水辺の休憩所から風流な風景を眺める事ができます。
一乗寺の鐘楼は、奈良朝時代の伽藍の配置と同じで、経蔵と東西対象に建てられています。元は寛文2年の秋彼岸に建立され、縦4尺8寸の梵鐘がかけられました。昭和29年に入り、26世代に再鋳、京都の糸地が制作にあたり、5月22日に式典が挙行されました。朝夕はもとより、荷中の寺宝や除夜の鐘として親しまれ、近隣に美しい音色を響かせています。
当寺25世・永平77世貫首 瑞岳廉芳禅師を祀る石像です。曹洞宗梅花講を全国に普及させることに尽力し、海外の宗教指導者とも積極的に交流されました。
寛政2年(1790)5月。山梨平四郎が建立し、先祖の守本尊である虚空蔵菩薩を安置しました。輪蔵は経庫、蔵殿、単に経蔵とも言われ、経巻を収蔵する建物です。当寺の物は、寛文11年(1671)黄檗板一切経が収められていた六角廻輪の経蔵です。黄檗板鉄眼版は若干の欠巻こそあれ殆どが保存されており、経蔵自体もこの地方にしては珍しい経蔵となっています。
当寺の永代供養塔です。お骨壺を棚に安置させていただき、年に一度、永代供養慰霊祭を行います。50回忌まで追善供養し、その後、合祀とさせていただきます。ご相談によって、最初から合祀することも可能です。
羅漢とは阿羅漢の略で、一切の煩悩を断って修行の最高位に達し、悟りをひらいた仏弟子や聖者のことを表します。お釈迦様の正しい教えを守る16人の弟子が十六羅漢で堂内に鎮座されています。(※坐禅堂には、五百羅漢像が坐禅修行を見守っています。)
江戸後期、領主の旗本・秋山安房守の武運長久を祈って寄進されたものと伝えられており、入口には二十六世和尚の扁額が掛けられています。このお堂には、寺に住みついた「羅漢さんといたずら狐」の伝説が残されています。
明治38年(1905)~平成5年(1993)
静岡県田方郡修善寺村(伊豆市瓜生野)に生まれる。
12歳の時、静岡市葵区羽鳥の洞慶院にて丹羽仏庵老師のもと出家。東京帝国大学文学部インド哲学科を卒業。曹洞宗の大本山永平寺にて修行し、東京の耕雲軒、清水の一乗寺、龍雲院の住職などを経て、久住山 洞慶院の住職となる。
その後、永平寺東京別院監院、伊豆の修禅寺や副貫首の要職を経て、昭和60年(1985)、曹洞宗の大本山永平寺第77世貫首、曹洞宗管長を歴任。「慈光円海禅師」の禅師号を宮中より宣下される。
昭和48年(1973)、スリランカの佛歯寺へ防弾ガラスを寄贈。
その後、幾度か現地を訪問しヌアラエイヤ永雲寺本堂の地鎮祭を挙げる。同年7月、イタリア普伝寺、フランス禅道尼苑などヨーロッパを巡錫し、ヨハネ・パウロ2世はじめ世界各地の宗教指導者とも交流した。
平成四年(1992)、ハワイ・カウアイ島の禅寺にて「世界平和大観音追善供養法要」を営む。太平洋戦争末期、東京から学童疎開を受け入れるなど地域の安寧と世界和平に尽力し、師の仏庵と共に洞慶院から曹洞宗梅花講(梅花流詠讃歌)を日本全国に普及させた。平成5年(1993)、9月7日、洞慶院の隠寮「観梅亭」で遷化。世寿89歳。
※道号法諱は瑞岳廉芳。別号に、老梅、梅庵、有梅など。
むかしむかし、庵原の里にある一乗寺の裏山には、一匹の年老いた狐が棲んでおりました。この古狐、毎日毎日寺にやってきては悪戯ばかりしておったので、和尚さんはたいそう困っていたそうな。
そんなある日のこと___。
いつものように、狐が山から下りてきました。
そうっと寺をながめると、和尚さんの姿がどこにも見当たりません。
『しめしめ、和尚のヤツは留守らしい。この隙にお供え物をいただくとしよう!』
狐は、ひたひたと本堂の中へと入りこみ、お供え物を荒らし始めました。
ところがどっこい、和尚さんは狐をひとつこらしめてやろうと、物陰にじっと身をひそめ狐がやって来るのを待っていたのでした。
「この性悪狐め!もう逃がさないぞ。」
そう言うと和尚さんは、棒をつかんで狐をにらみました。
狐は、たいそう驚いて羅漢堂(らかんどう)へと逃げ込みました。
和尚さんも狐を追って、お堂の中に入っていきました。
しかし、お堂の中を見渡すと、いつもと変わらぬ十六羅漢(※)さんがいるだけでした。
「おかしいなぁ。狐は、どこへ行ったんだ?」
和尚さんは、もう一度心を静めて羅漢さんの数をかぞえてみました。
すると、十六体あるはずの羅漢さんが十七体もいるではありませんか。
(さては…この中の一体に狐が化けているな。)
そう思った和尚さんは、お堂の前に仁王立ちになると、
「羅漢さん、動け!」
と、大声で叫びました。
狐は、ここで動かないと化けているのがばれると思い、ガタガタと動き出しました。
これを見た和尚は、「そこか!」と言い、棒で床をたたきました。
驚いた狐は、あわてて山へと逃げていきました。
これに懲りて、以来悪さをしなくなったということです。
(※羅漢さんとは…仏教の修行者やお釈迦さまのお弟子さんのことをいいます。
禅宗では、理想の修行僧の像としてお祀りしております。)