「暁天坐禅会vol.36」(静岡市) | 宗教法人 一乗寺

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  • ★暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、 暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。

    第36回坐禅会(参加者:9名)
    毎年12月1日から8日まで、曹洞宗の多くの寺院では「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という行持が行われます
    「臘」というのは、12月を意味する「臘月」の略で「八」は「8日」のことです。また、「摂心」というのは「心をおさめる」という意味で、今日宗門では「一日中坐禅をする行」のことを指します。
    臘八摂心は、とくに12月8日にお悟りを開いたお釈迦さまの坐禅を追慕する期間として行われます。
    当山では、毎年この時期「成道会」を営み、羽鳥の洞慶院にて「摂心」を行じております。
    本来ならば、修行時代そうであったように…文字通り一週間ぶっ通しで坐禅をするわけですが、、(※法務の都合もあり)この1日目と8日目の夜坐のみ行じているのが現状です。
    ともあれ、まさに「この坐より摂心!」となりました1日の早朝には、ほぼフルメンバーの皆さんにご参集賜りました。
    前回の雑感の中で、「坐禅は習禅に非ず」・・・「何らかの目的のためにやっているのではない」
    →しかしながら、(意識・無意識に関わらず)目的意識が働く「現代人」や「外国人」の参禅者さんに対して、どう説明したらよいか。
    もっと言うと、
    あまねく皆さんに対して、どう告知していけばよいか。。などと書き連ねてしまいました
    さらに、
    『分かりやすさを追求するだけでは、本質を見失ってしまう。。
    一方、古徳の教えをどう咀嚼して傳導すべきか。。。云々』と偉そうなことを申してしまいました。。
    元よりひよっこの私に先人の教えを余すところなく伝えることなど、一生かけてもできないことだと思っております
    もちろん、教えを紐解くことへの努力は怠らぬよう努めて参りますが、、
    そもそも、祖師方の教えを咀嚼するという表現におこがましさが表れて伝わってしまったかもしれません(猛省;)
    以前、とある法話の会で、若い発表者(僧侶)の方が
    「大勢の人の前で法話をするのが、とても緊張する」と吐露しておられました。
    その時、講評された老師が
    「仏さまの教えを自分が代わりにお話しをするわけであって、(例話はともかく)過度に緊張するのは自我が勝っているためだ」とおっしゃっていました。
    つまり、自分の思いや持論が邪魔をしていては、それこそ本質を見失ってしまうということです。
    今の私は、仏説ではなく単なる自説によるもので、持論を抜いた法話はおそらくスカスカなものになるでしょう。
    ということは、先人祖師方に比べ圧倒的に勉強量と坐禅が足りないのです。(新米住職の苦悩は)つづく。。。
    …と。こんな私の頭の中に関係なく、今日も平均年齢80歳の坐禅会の皆さまの時間は静かに過ぎていきました。
    その中に、このwebサイトをご覧になり、会社勤めのご多忙のさなかご来山された参禅者の方がおられました。
    “坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり” ―道元禅師
    坐禅は、理屈で坐るのではなく、自分の気持ちに従い、心も身体も静かに坐るものだと
    今更ながら再認識させられた師走の朝でした👏
    【次回の「坐禅会」は、12月15日(金)あさ5時半〜(場所:客殿)・本年最後の開催となります。】
     
     
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