「暁天坐禅会vol.65」(静岡市) | 宗教法人 一乗寺

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  • 🌞暁天(ぎょうてん)とは、明け方の空という意味で、
    暁天坐禅(きょうてんざぜん)とは、早朝に行う坐禅のことです。
    第六十五回坐禅会(参加者:10名)
    「令和」の始まりは、
    「坐禅」から。
    今朝は、しとしと雨が降っていました🐸☔️
    その雨の中、参禅の方がお集まりになり
    同じ場所、同じ時間を共有し
    それぞれの坐禅を組みます✍️
    いつも通りの坐禅会が開けるということは、有り難いことだなと改めて思います。
    いま、様々な情勢からこの「いつも通りの日常」が保てない地域もあります。
    (どれも、一言では言い表せない事象ですが)戦争や災害、あるいは家族やご自身の状態によって、当たり前が当たり前でなくなる世の中。
    目まぐるしく流れる時代の中で、
    あえて身体の動きを止め、じっと静かに坐るのが坐禅です。
    「何のために座るの?」
    これは、よく聞かれる質問ですが、
    坐禅に目的は、ありません。
    以前、
    ある老僧がこうおっしゃっていました。
    『現代人は、身体も心も動きすぎる。
    だから、あえて身体を止めるのだ。
    すると、自然と心も定まっていく。』
    身体を整え、呼吸を整えることで、
    心が整っていく。
    『坐禅をして、何かを得られるということではない。ただ、坐るだけでいい。
    良い坐禅が出来たという気持ちだけで良い。』と。
    我われ現代人、あるいはインバウンド(訪日外国人)の方の中には、
    まず「目的(purpose)」があり、
    そのための手段(step)として
    行動(action)がある、という思考回路が当然あろうかと思います。
    ですから、行い(act)=目的(purpose)という構図が、なかなか理解されにくいこともあります。
    禅門では、これを『修証一如(しゅしょういちにょ)』と称します。
    ▼修行と悟りは一体のもの・悟りのために修行するのではなく、一瞬一瞬に気づきをもって行じること(生きること)が、そのまま仏の姿であるという意。
    ▼“shushoichinyo ”(practice is not for enlightenment, but they are combined and cannot be divided.)
    とはいえ、
    人生の節目には抱負を述べたり、
    目指す目標があることは、決して悪いことではありません。
    目的に向かう「手段」の英訳の中には、
    (way)=「道」という言葉もあります。
    道は、人が歩む限り
    あらゆるところに存在します。
    平坦なところばかりではなく、山あり谷ありの道もあるでしょう。
    そして、平面的な概念のみならず
    過去・現在・未来をつなぐ道も存在しています。
    それは、
    人の目には見えないものもありますが、
    古来より確かに伝わる道だと思います。
    これからの新時代、
    私たちがどんな道を進み、
    どんな足跡を残すかは、
    自分自信の歩み方次第です🙏
    無理して人と比べる必要はありません。
    ただ、着実に一歩ずつ前を向いて歩んでいきたいと思います。
    皆様にとって
    良い時代が訪れますように(^人^)✨
    【次回の「坐禅会」は、6月1日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
    ※5月15日(水)は、諸事情によりお休みとさせていただきます✍️

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