その他
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第百回坐禅会(参加者:9名)
本日は、私がこのお寺に着任してから数え始めてちょうど「100回目」の月例坐禅会でした。
奇しくも、昨日14日は東京オリンピックまで「あと100日」ということで節目が続きました
世の中は、国内外問わず様々な問題や社会苦が絶えず巻き起こっています。
そうした渦中にあり、静かにただ坐る「坐禅」に何か意味があるのか?
もとより、意味はございません。
目的もありません。
坐ること=悟り
曹洞宗の教えの根幹にあるのが、この坐禅です。
約2500年前―。お釈迦さまが坐禅修行により悟りを開かれたことに由来し、曹洞宗開祖・道元禅師はただひたすらに坐る「只管打坐(しかんたざ)」という教えを説かれました。
坐禅する姿そのものが「仏の姿」であり、「悟りの姿」であるとされます。これは悟りのための手段として修行するのではなく、修行と悟りは一体のものだという「修証一如(しゅしょういちにょ)」という教えにもとづいています。
こう聞くと、お寺では何か無駄なことをしている。あるいは、世の中のことに向き合っていない…と感じる方もおられるかもしれません。
仏教は、何となくドライで厭世的(えんせいてき)だという印象を抱かれる方もあるでしょう。
(※厭世的とは、人生や世の中にうんざりして、 目を背けようとするさまを表す言葉です。)
ところがどっこい!
仏教ことに禅は、今の生活にとって非常にためになることを伝えております。
それは、自己との向き合い方、心の整理整頓や多角的視点の構築など、(言葉にすると前述の「目的はない」ことに矛盾して映ってしまうかもしれませんが)心身を整えることにつながる行を数多く教えてくれます。
情報過多の現代においては何もかも目まぐるしく動くので、あえて自らの動きを止め「いま、何が大切か」ということを精査する時間と捉えていただいても差し支えないかと思います。
※パソコンで言えば、#デフラグ
この視点から申せば・・・
冒頭で100回目の節目と申しましたが、本来そのようなカウントは不必要なものです(´-_-`)反省
怠ることなく、ただ黙々と坐れば良いのですが、、凡夫である私の頭の中もまた絶えず目まぐるしく動いておりますので、その時その時に感じたことを認め、後に反省材料にしようとこのブログを始めました。
恥も外聞もなく戯言放言を書き連ね、ここまでお付き合いくださった皆さまには誠に感謝に堪えません。
おかげさまで、これまで拙稿をご覧になった方からのお問い合わせや、新たに坐禅会に参加してくださった方も多数ありました
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
(30年来当山の住職を務めた)父の代から数えれば、もう800回以上に渡り当坐禅会に参加されている大ベテランの参禅者の方もおられます。
これからも、そうした先達の背中を仰ぎつつ一歩一歩行じて参る所存でございますので、引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
一乗寺住職 丹羽崇元 合掌
【次回の「月例坐禅会」は、5月1日(土)あさ5時半~、予約不要・参加無料です。】
≪追記≫
・100回記念に、本尊さまの視点から本堂を撮影いたしました。(写真参照)
・次回は、101回目また気候的にも穏やかになって参りましたので従来通り「坐禅堂」が会場となります。ご参加希望の方は、お気軽にお問い合わせください。